太陽と北風の話を知っているだろうか。
 太陽と北風が、道を歩く男の羽織るコートを脱がした方が勝ちという勝負をする寓話だ。
 先攻は北風で、彼は風を起こして男のコートを吹き飛ばしてしまおうと、猛烈な強風を男に浴びせた。
 しかし、北風がどんなに風を強くしても、男はコートを手離そうとしなかった。むしろ風を強めるほどに、男の抵抗は増した。北風は暫く踏ん張ったが、やがて諦めてしまった。
 後攻の太陽。彼は己の番が来たというのに、ただ悠然と微笑んでいた。
 訝る北風の顔は、やがて驚愕に変わった。なんと、何もせず空に浮かんでいた太陽の真下で、男は自らコートを脱ぎ出したのだ。体中汗だらけの男は、乱暴にコートを脱ぎ捨てると、そのままセーターも脱ぎ出し、Tシャツ一枚になってしまった。
 勝負はついた。がっくりと項垂れる北風を諭すように、太陽は言った。世の中、力押しだけじゃ解決しないこともあるんだよと。



 押しても駄目なら引いてみな
 
1.
 ネルガル月支社地下の秘匿ドック。鉄と錆が支配する無骨な空間の一角に、その空間とは対照的に優雅なシルエットを持つ戦艦が鎮座していた。ネルガルの暗部の一つである、戦艦ユーチャリスである。
 ユーチャリスは今しがた火星から帰還したばかりだ。ナデシコCと火星の後継者の戦闘に乱入し、北辰六人衆を撃破して早々に退散してきたのだ。
 そのユーチャリスの艦橋に真っ黒な男が一人シートに腰がけていた。復讐鬼と化したテンカワ・アキトである。
 本人に知れれば死を覚悟する必要があるが、今現在における彼の心情を説明すると次のようになる。

 「北辰を倒した。ユリカを助けた。火星の人達の無念を晴らした。もう思い残すことは何も無い。今更皆のもとに帰ることもできない。俺は悲劇のヒーローさ。後はただ朽ち果てるのみ。るるるー」

 元々熱血漢でアニメ好きなテンカワ青年である。どうしようもない不幸に苦しみながらも、ほんの僅かでもそんな自分の状況に酔わなかったとは言えないだろう。ちょっぴり自己陶酔に浸るくらいは役得かもしれない。
 ともかく、宿願を果たしたアキトは、もう表の世界に帰る気はなかった。正直なところ、復讐を果たした後のことなど考えたこともなかったので、これからの予定に明確な指針など存在しないのだが、まあネルガルのテストパイロットになるなり、火星の後継者の残党を狩るなり、ネルガルから離れるなりするのだろうと、シートに体を預けながらアキトは漠然と考えていた。
 しかし、そんなアキトにも少し気掛かりがあった。周囲の反応である。
 生存を知られてしまった以上、ルリやユリカはアキトを連れ戻そうとするだろうし、ネルガルの面子もアキトを表の世界に帰そうと説得するに違いない。明確な指針は無いといったが、表の世界に帰るという選択肢だけは初めから勘定に入れていない。当面の課題は、周囲の人間達をどう言い包めるかだった。
 そんなアキトの前方のIFSシートに腰掛けていたラピスが唐突に口を開いた。
「エリナから通信」
 エリナ。エリナ・キンジョウ・ウォン。ナデシコクルー時代の同僚にして、現在はサポートを行ってくれる協力者の一人。未だに甘さを捨てきれない女性。アキトが復讐を誓ったとき、最後まで反対した仲間でもある。
 開いてくれとアキトが告げると、返事の代わりに通信ウインドウが開かれた。
「アキト君。お疲れ様」
 安堵の顔を浮かべるエリナが、ウインドウ越しにアキトを労った。
「貴方の執念が、とうとう実ったわね」
「ああ、なんとかな。そちらの協力には感謝しているよ」
「こちらにはこちらの意向があってのことよ。貴方にお礼を言われる筋合いは無いわ」
 甚だ心外だと切って捨てる。予想通りの反応に苦笑するアキト。
「そうだな……悪いが少し疲れた。特に急な用件が無ければ、この辺りで終わりにして欲しいんだが」
「そう。張り詰めていたものが一気に緩んだんでしょう。お疲れ様。後の処理はこちらで済ませるから、休んで頂戴」
「助かる」
「そうそう、アキト君」
「何だ?」
「貴方、これからどうする気?」
 やはり来たか。アキトはエリナの怒鳴り顔を想像しながら、しかしそれを恐れずに言い放った。
「そちらの意向に反しないなら、今の関係を維持したいと考えている」
「つまり、貴方は今後も死んだ人間として生きていくつもりなのね?」
「そうだ」
 すまないエリナ。お前が何と言おうとこの決意は曲げられないのだと、アキトは心中で呟いた。
「あっそう。分かったわ。他に用は無いから切るわね。じゃっ」
「え――」
 通信が切れ、ウインドウも消えた。なんだか拍子抜けするアキト。もう少しいざこざがあっても良いと思っていたのだが、やけにあっさり納得してくれことに少し戸惑う。少しばかり予想外だった。

2.
 それから数日後、地球圏の混乱もようやく収まりかけていた、そんな情勢下。アキトはネルガル会長アカツキ・ナガレに呼び出され、ネルガル本社の会長室を訪れていた。
 「やぁテンカワ君。元気そうでなにより」
 大事な用件があるとアキトは聞いていたのだが、アカツキの様子を見るにそれはアキトを呼び寄せる方便であったらしい。アキトが部屋に入ったとき、アカツキは既に一杯始めていた。
「帰っていいか?」
「おいおい、月にトンボ帰りする気かい? せっかくの祝杯なんだから、もう少し愛想良くしても罰は当たらないと思うよ」
「飲みの誘いなら、初めからそう言え」
 しかし黒くなっても人が良いところは変わらないアキト。やれやれと小さく息を吐きながらも、アカツキの向かいにあるソファーに腰掛けた。

「それで、テンカワ君。会長の僕としては、そろそろ聞きたいところなんだけど」
 水割りのコップを軽く回しながら、アカツキは言い出した。
「何がだよ」
 缶ビール片手に聞き返すアキト。酒が回ったのか、口調が昔のものに戻りかかっていた。
「君のこれからのことさ」
「あー」
 その事か。アキトは大分ぼやけてきた意識下で理解した。ナデシコ時代からの付き合いで、アキトはアカツキが実は偽悪家であることを知っていた。なるほど、案外お人好しなこの男のことだ、自分にネルガルを抜け普通の生活を送るよう説得するために、わざわざこんな飲み会の場を用意したのか。アキトは目の前の男の心情を察し、ありがたく思いながらも、その好意をこれから無碍にする身勝手を心中で謝罪し、口を開いた。
「悪いが……俺はもう帰る気は無い」
「あっそう? それじゃ契約は継続ってことで」
「何と言われようが俺の決意はって、えっ?」
「いやー正直助かるよ。君ほど便利な人材の代わりなんてそう見つからないからね。いや、助かった。これでネルガルも安泰だよ」
「えっと?」
「まぁまぁ。これからもよろしく頼むよ、テンカワ君。ほら、もっと飲んで飲んで……」 
 何か腑に落ちない。しかし口に出すほどの疑問があるわけでもない。アキトは首を捻りながらも、アカツキの晩酌に付き合うのだった。

 そしてさらに数日後、アキトは火星の後継者の残党狩りを行うべく、彼らが潜伏していそうな宙域を探索していた。やがて数隻の巡洋艦からなる小艦隊を発見し、数の差なんのそのでこれを撃破した。そんな矢先のことである。
「アキト、レーダーに反応」
「照合できるか」
「待って。宇宙軍所属戦艦ナデシコBと確認」
「ナデシコだって」
 まさかこんな所で会うとは。アキトは驚愕した。もしかしてネルガルにハッキングしてユーチャリスの場所を突き止めたりしてないよなと、不安に陥りながら、しかしここは多少厳しい態度を取って追い返してしまおうと決心し、ラピスに通信を開かせた。
「こんにちは、アキトさん」
「ルリちゃんか。用件は何だ」
 俺を捕まえようとか、俺に戻ってきて欲しいから説得しようとしても無駄だからな。俺は闇の世界に生きると決めたんだ。すまない、君にラーメンを作ってあげることはもうできない。君は俺のことなど忘れて幸せになってくれ、などなど、色々と台詞を考えていたアキトの思考など露知らずにルリは答えた。
「用件と言われましても……ただのパトロールですが」
「ユリカのことを頼む……えっ、パトロール?」
「パトロールですよ? それと、ユリカさんのことを私に頼まれても困ります」
「そ、そうか」
「では、この辺で失礼しますね。これでも私、多忙な身空でして」
「あー、そうなんだ?」
「はい、そうですね」
「ていうか、パトロール中なんだろう? 俺の船は無視して良いのか?」
「どうしてです? こちらのデータベースによると、そちらの艦はナデシコ級戦艦ユーチャリスで、宇宙軍の遊撃部隊に所属していて、火星の後継者の残党を掃討する任務についてるとのことですが……間違ってませんよね?」
「あ、そういうことになってるのか。道理で反対されなかったわけだ……じゃなくて、えーっと、つまりだな」
「すみません、こちらも任務中なので。お互いがんばりましょう。では」
 途切れる通信。沈黙のユーチャリス艦橋。ラピスは何事も無かったかのように、何時もの事務口調で「通信終了」と報告した。
 通信ウインドウが閉じられてから5秒ほど経ち、アキトはようやく口を開いた。
「……あれっ?」

3.
 2週間後。ネルガル月支社地下秘匿ドック最下層。そこにある自室のベッドの上で、アキトは膝を抱えていた。
 おかしい。絶対おかしい。いや、自分が望んだ通りではあるのだが、やっぱりおかしい。
 もう少しこう、イベントがあっても良いのではないか。
 もう正直言わせてもらうなら、誰か一人くらい「行かないで〜」とか言ってくれても良いんじゃないだろうか。
 エリナは本来の執務で忙しく、月臣やゴートといった面子も出払っている。
 パートナーのラピスといえば、「そろそろ普通の生活がしたい」とか言ってどっかに遊びに行ってしまった。

 沈黙。自分だけの部屋。重苦しい空気を払拭しようとリモコンを手に取りテレビの電源を入れてみた。

 「皆さんこんにちは〜メグミ・レイナードでーす」
 ピッ
 「さぁ次は人気沸騰中のアイドルグループ。ホウメイガールズの登場です!」
 ピッ
 「火星の後継者の叛乱を見事に治めた電子の妖精ホシノ・ルリ少佐。その魅力に迫ります」

 どこのチャンネルをかけても、何故か良く知った顔が出てきた。皆笑顔で、輝いていた。
 アキトはテレビの向こうの仲間たちと、今の自分を比べて、どうしようもない気持ちになった。
 「何だよ俺……何やってんだろ」
 アキトはようやく気づいた。自分がどうしようもなく、皆の場所に帰りたがっていたことに。
 「う……くっ」
 二年前、復讐を誓った日から決して流さなかった涙が、幾度も頬を伝った。
 
 青みの掛かった黒い長髪の女性がアキトの部屋を訪れたのは、それから間も無くのことだった。


4.
 薄暗い部屋があった。別に電気代をケチっているわけでも、電灯の配置が悪いわけでもない。意図的な演出というやつだ。
 高級そうで、悪趣味でない品の良さに溢れるその部屋は、地球にあるネルガル本社ビルの最上階。会長室である。
 ビシっと隙なくスーツを着こなしているエリナが、コミュニケから連絡を受けていた。
「うん……そう、分かったわ。じゃあ」
「どうしたんだい?」
 すぐ横で椅子に腰掛けていたアカツキが尋ねると、エリナは安堵と、ほんの僅かの悔しさが混じった声で答えた。
「アキト君、ユリカさんに連れられて地球に行ったそうです」
「へぇ。そうかい」
 頬を緩ませるアカツキ。全く手間を掛けさせる男だよと呟くと、前に居た者たちに声を掛けた。
「だ、そうだよ」
「計画通りですな。会長」
普段通りの無愛想な顔で答えたのはゴートだ。
「うむ、こうも上手く行くとは思わなかったぞ。単純な奴だ」
ゴートに相槌を打ち、アキトを小馬鹿にする月臣。
二人の間に立つプロスペクターが、苦笑しながら月臣を諌め、何時もの営業スマイルで続ける。
「各方面に手を回し、テンカワ君が孤立するように仕向けた甲斐がありました」 
「うんうん。苦労をかけたね、皆」
両手を組み、にこやかに部下達を労うアカツキ。すると、ゴートの隣でじっとしていたラピスが不機嫌そうにアカツキに尋ねた。
「そろそろ私にも説明して欲しい。突然リンクのレベルを下げてアキトの傍から離れろって命令されて、気づいたらアキト帰っちゃうんだもの」
「ああ、それはこれからせつめ――」
「大丈夫! まーかせて!」
「「「うわっ」」」
喜色満面の笑みを浮かべたイネスが、アカツキらとプロスペクターらの間、つまり部屋の真ん中に佇んでいた。
「ドクター、いつの間に」
「馬鹿な、柔を修めた俺が侵入に気づけない訳が」
「困りますなぁ。イネス博士」
「ていうかイネス、貴女実験があるから来れないって言わなかった?」
度肝を抜かれるメンバー。口々に文句を言うが、天才奇才のこの女性に凡人の常識など通じないのか、何処吹く風とまるで聴く耳を持たないでいた。周囲の非難の声が止むと、イネスは溜息吐いた。
「あまり私を失望させないで欲しいものだわ。今ここに私の説明を必要とする者が居る。大事なのはそれだけじゃないかしら?」
それだけじゃない。イネスを除く皆の心がシンクロした。しかし彼らはイネスの性格にはいい加減慣れていたので、これ以上の口論は無意味だと判断した。
「まぁ今に始まったことではないからね……それじゃ、ラピス君に説明してもらえるかな」
アカツキの言葉に、イネスは待ってましたとこの日の為に暗記しておいた解説文を口頭で出力し始めた
「勿論そのつもりよアカツキ君。さて、まずラピスには謝らないといけないわね」
「私だけぎりぎりまで除け者にされたこと?」
「そう。何故そうしなければいけなかったのかは、これから話すわ」
イネスがパチっと指を鳴らすと、床のハッチが開きホワイトボードがバシュっと音を立てて現れた。
「ははは、もう突っ込まないよ」
「ありがとう会長。それで今回の悪巧みだけど実はかなり初期、そう、アキト君が復讐を誓い、火星の後継者と暗闘を繰り広げるようになった頃から考えられてたの」
「私がネルガルに救出される前から?」
「その通りよ。テンカワ・アキト更正計画と私たちは呼んでいるわ。今から二年前」
イネスが遠い目をし始めたのに気づいたプロスペクターが慌てて口を出した。
「申し訳ありませんが博士。その辺りの経緯はラピスさんの体力も考慮し今回は手短に願います」
「その通りだ。博士」
力強く頷く月臣。この面子の中では新参と言える彼だが、イネスの説明がどれほど長くなるか身を以って知っていた。
イネスは本当に残念そうな顔を見せたが、誰も彼女をフォローしようとしない。やがてイネスは自力で復活し、続けた。
「仕方ないわね。要するに、私たちは念密なシミュレートの結果、復讐を果たしたアキト君は私たちの説得に耳を貸さずに戦いを続けてしまうという未来を知ったの」
イネスは目を伏せ、静かに続ける。
「その未来で、アキト君は修羅となり、最後は犬死にする」
「そんな……」
ラピスは背筋が凍るような気配を感じた。アキトのパートナーとして彼と行動を共にし、その心の闇を幾度も覗いて来たラピスは、イネスの言う未来を否定する事が出来なかった。
「ラピス、大丈夫?」
心配そうにラピスを気遣うエリナ。
「うん、平気。続けて」
「ええ。私たちは何とかその未来を回避できないか考えたわ。アキト君への協力を止めて、無理やりルリちゃんのもとに突き返すのも考えたし、全てが終わった後に彼を全力で説得してネルガルの暗部から手を引かせる事も案にはあった」
「しかし、それでは駄目だったのです」
プロスペクターが眼鏡を抑えて言った。
「そう、何種類ものシミュレートを行ったけど、結果は全てハッピーエンドとは程遠いものだったわ。ネルガルの援助を受けずとも、アキト君は独自に動いて志半ばで力尽きるし、私たちがどんなに説得しようとも彼は耳を貸さず、むしろ逆効果に終わってしまうの」
「放っておいても協力しても、テンカワを待つのは破滅しか無かった」
ゴートが神妙そうに呟く。
「私たちは行き詰ったわ。でも、私たちはすっかり忘れていたのよ。アキト君の強情な性格に」
「性格?」
「熱血漢で直情型、意地っ張りなんだよね、彼」
 アカツキがニヤニヤ笑いながら教えた。
「つまり、私たちが放っておけば意地になって暴走し、熱心に説得すれば逆に帰りたがらなくなるの」
「……子供みたいね」
ラピスの呟きに、皆苦笑する。
「ラピスの言う通りね。ま、それで私たちは彼を上手くコントロールする事にしたの。復讐の手助けをし、上手く彼の手綱を握り、信頼関係を十分作り上げ、全てが終わった後は敢えて彼を放置する。アキト君は他人が恋しくなり、復讐心が萎えてしまう。これぞ、北風と太陽作戦!」
「つまり、私にその作戦が知らされてなかったのは」
「精神リンクで繋がって、四六時中一緒に居る貴女からふとした事で情報漏洩してしまう事を避けたかったのよ。
アキト君、微妙な所で勘が鋭いしね」
ごめんなさいねと謝った後、エリナは最後に付け加えた。
「それに言うじゃない? 敵を騙すにはまず味方からって」

復讐鬼から黒衣を脱がすのに力技も説得も必要ない、自分から脱ぐよう仕向ければ良い。それだけの話だった。

「ところで、ホワイトボード使ってない気がするんだけど」
「気分よ」